800年以上の歴史を誇る人吉城|熊本県人吉市
人吉城
人吉城の歴史は古く、1200年初頭に築城されています。近世の姿になったのは1639年(寛永16年)ごろ。1589年(天正17年)に改築がはじまり、何度か中断しながらも51年の歳月をかけて石垣が完成しました。人吉城は本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平城。大手門、水の手門、原城門、岩下門で区切られる城の周囲ははんと2,200メートルもあり、広大な敷地を持つお城です。北側は球磨川、西側は胸川に面しており、東側と南側は山の斜面に崖と地の利をおおいに活かしています。
こちらは橋から水の手門跡を見たところ。
武者返しの石垣
武者返しといえば熊本城の石垣が有名。実はここ人吉城の石垣も武者返しがあります。熊本城の石垣は反り返っているのに対し、人吉城の石垣は返しがついている。ある意味分かりやすい武者返しといえるでしょう。
かつてはこの石垣の上に長櫓がありましたが、1862年(文久2年)の寅助火事で焼失。櫓は再建されず、代わりに石垣を高くしてはね出し工法による突出部を付けました。これが人吉城の武者返しです。
武者返しのある石垣の裏側。
寅助火事とは
1862年(文久2年)2月7日の正午ごろに、鍛冶屋町にあった鉄砲鍛冶・恒松寅助宅からの出火に端を発する大火。乾燥期で強風が吹いていたのも災いし、火は球磨川を越えて人吉城内まで飛び火。城内、城下の家屋に甚大な被害を及ぼし、650年以上続いた相良家の人吉治世でかつてないほどの大火災となった。奇跡的に死者はなく、負傷者も3名ほどに留まっている。
間米蔵跡
その石垣の前にある間米蔵跡(あいだこめくらあと)。切妻造瓦葺きの建物だったそうです。間米蔵は寅助火事で焼失。その後再建されましたが、明治初期の払い下げによって解体されました。
水の手門跡
水の手門は幅3間(1間は約1.818メートル)あった板葺きの建物。球磨川に面していて、水運のための門だったことからこの名が付きました。
常設の橋が架けられるまでは、毎年架け替えられる仮橋の場所でもあったそうです。
堀合門跡
堀合門は城主の住居である御館(みたち)の北側に位置する裏門。寅助火事でも消失を免れました。1871年(明治4年)の払い下げの際に、新宮家の武家屋敷に移築。今日に至るまでその武家屋敷に現存しています。人吉城の建造物で唯一残っている貴重な物です。
現在の建物は2007年(平成19年)に復元された物。
武者返しのある石垣の内側から石垣と堀合門を見たところ。
堀合門の近くにあった「史跡 人吉城」の石碑。
大村米御蔵跡・欠米蔵跡
間米蔵と同じく大村米御蔵、欠米蔵も切妻造瓦葺きで、それぞれ4間×10間の縦長な蔵でした。相良藩では藩内に12ヶ所お米蔵を置いていて、そのうち3つは城内にあったことになります。
左近の石
球磨川沿いの高台にある左近の石。重さ31トン、周囲10.83メートル、高さ2.19メートルもある安山岩の巨大な岩です。もともとは球磨川の中に置かれていた岩でしたが、昭和43年の河川改修工事にともなって城内に移されました。1607年(慶長12年)に球磨川の中洲である中川原をはさんで、球磨川唯一の橋となる大俣橋、小俣橋が架けられました。しかし中洲を橋台にしていた為、増水でたびたび橋が損傷。相良藩家老の村上左近の進言により、中洲の上流部の先端に大岩を沈め、中洲が流出しないようにしたということです。この岩はその一つだったんですね。
犬童球渓の碑
故郷の廃家、旅愁などの歌で知られる犬童球渓は人吉市の出身。人吉が生んだ音楽家の作詞作曲した作品は360を超えるそうです。中学の音楽の授業で犬童球渓を習った時、変わった名前だなあと思ったのを覚えていますが、すごい人だったんですね。
御下門跡
御下門は人吉城の本丸・二の丸、三の丸へと続く唯一の登城口にあった門。大手門と同じく櫓門形式だったそうです。門の奥には出入り監視のための門番所がありました。
御下門跡のそばの石垣はきれいに残っています。
当時の様子を偲ばせてくれますね。
御下門跡の近くにあった石碑。
御下門跡から中御門へ
この階段を登っていくと中御門跡へと続きます。
そしてまたこの階段の雰囲気がいい。
下手に整備されてないので、当時に思いを馳せるにはピッタリです。
- スポット名人吉城址公園
- 料金無料
- 住所熊本県人吉市麓町
- 熊本県人吉市麓町
- 電話番号0966-22-2111(人吉市教育委員会 社会教育課)
- 営業時間散策自由
- 休業日年中開放
- 駐車場有(50台)
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