最北の現存天守!弘前城|青森県弘前市
津軽家が建てた弘前城
青森県弘前市にある弘前城に行ってまいりました。弘前城は1603年(慶長8年)につがるを統一した津軽為信が計画。2代藩主信枚時代の1610年(慶長15年)に着工し、翌年に完成しました。現在では桜の名所として、また最北にある現存天守を持つお城としても有名です。
三の丸東門から城内へ
弘前城へはいくつか入口があり、まずは三の丸東門から入城しました。
重要文化財に指定されている三の丸東門。おそらく築城時からある門と考えられています。装飾的な意匠がほとんどない素朴な造り。ですが鋳鉄製のシャチホコがあげられています。
ピクニック広場として整備されている三の丸。明るい雰囲気です。
この橋は東内門外橋。弘前城では唯一の石橋で1848年(弘化5年)にかけ替えられました。
東内門外橋から見た中濠。
そのさきにあるのは二の丸東門。こちらも築城時からあると考えられていて、重要文化財に指定されています。正面の柱は材木はケヤキ。もともとは本瓦葺きでしたが、後に銅瓦葺きにされたそうです。
二の丸東門の近くにある7二の丸東門与力番所。見張り所です。当時、城内にはこのような見張り所が12ヶ所もありました。ちなみに後ろにあるソメイヨシノは世界最古で1882年(明治15年)からあるそうです。
北門から城内へ
次は北門から城内へ。
別名は亀甲門と呼ばれ、もともとは大手(正面の)門でした。現在は搦手(裏の)門の役割を担っていて、他の城門に比べて規模が大きいそうです。
こちらは賀田御門跡。緩やかですが、道が直角に2度曲がっているので枡形になっています。枡形は敵の侵入を妨害する典型的な防御設備。
重要文化財に指定されている二の丸丑寅櫓。丑寅は北東の方角を表しています。お城へ迫る敵を攻撃したり、見張りのためにある櫓です。防弾・防火のために土蔵造りになっており、屋根は銅板葺き。素朴ですが美しさも備えます。
三の丸大手門から城内へ
最後は三の丸大手門から城内へ入りました。
こちらも重要文化財に指定されている三の丸大手門。参勤交代の経路が変更されたために大手門となりました。築城時からあると思われています。当初は本瓦葺きでしたが現在は銅瓦葺き。江戸時代の地震によって大きな被害を受け、内部は補強してあるそうです。
杉の大橋から見た中濠。
その先にある二の丸南門は重要文化財。こちらも築城時からあると考えられています。
当初は本瓦葺きでしたが、後に銅瓦葺きになりました。弘前城は城内の建物がよく残っていますね。
こちらは二の丸未申櫓。未申は南西をあらわし、重要文化財に指定されている櫓です。
そしてこちらも重要文化財に指定されている二の丸辰巳櫓。現存している3つの櫓(丑寅櫓、未申櫓、辰巳櫓)は敵を攻撃したり見張るためにあり、防弾・防火のために土蔵造りとなっています。3つとも似た形をしていますが、窓の形など細かい部分が微妙に違うそうです。
こちらは二の丸跡。
私が訪問した際(2017年8月)は石垣解体工事中。
工事の様子を見ることができました。
この下乗橋から有料区画である本丸へと行くことができます。
北の郭
有料区画には2ヶ所入口があり、今回は東口券売所から有料区画に入りました。ちなみに本丸の近くには南口券売所から入れます。そしてこちらが北の郭。
ここは子の櫓跡。
ここにはかつて三層の櫓があり、武具や藩庁日記なども保管されていて、明治維新後も現存していました。しかし、1906年(明治39年)に花火によって焼失。天災は仕方ないですが、これは残念ですね。芯柱の礎石は発掘されたままだそうです。
ここは籾蔵跡。もともとは4代藩主津軽信政の生母、久祥院の屋敷がありました。その後は宝蔵や籾蔵が立ち、廃藩のころには籾蔵が並んでいたそうです。現在は礎石列を表示してありました。
この建物は武徳殿休憩所。1911年(明治44年)に演武場として建造された建物を休憩所へと改修してあります。資料の展示や喫茶店がありました。
ここは館神跡。2代藩主津軽信枚が豊臣秀吉公の木造を御神体として安置した場所です。
ここでは加持祈祷(神仏に祈る重要な儀式)が行われていて、藩主や神官などごく限られた人しか立ち入ることができませんでした。げ鳥居の礎石や本殿の柱などが表示してあります。
そして鷹丘橋を渡るといよいよ本丸。
こちらは本丸の石垣です。
本丸
そしてこちらが本丸。
- スポット名弘前城
- 料金大人 310円
- 住所青森県弘前市下白銀町1 弘前城
- 青森県弘前市下白銀町1 弘前城
- 電話番号0172-33-8739
- 営業時間9:00~17:00(さくらまつり期間)7:00~21:00
- 休業日11/24~3/31
- 駐車場有料駐車場が有
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