江戸時代に架けられた通潤橋と霊台橋|熊本県山都町 美里町
実は石橋の聖地である熊本
石橋とはその名の通り石造りの橋のこと。中でもアーチ橋は眼鏡橋といいます。本来はアーチが2つ連なったアーチ橋を眼鏡橋といいますが、広義では単独のアーチや3連以上のものも眼鏡橋と呼ぶそうです。ほとんどが九州に集中している眼鏡橋。なかでも種山石工(たねやまいしく)がいた熊本にはその半数が存在します。熊本は実は眼鏡橋の聖地なのです。種山石工は江戸時代後期に熊本県の八代地域に住んでいた石工集団。県内外に多くの石橋を残しています。今回はその眼鏡橋の中から特に有名な通潤橋と霊台橋に行ってまいりました。
水を運ぶ石橋 通潤橋
まずは熊本県上益城郡山都町にある通潤橋。1854年(嘉永6年)に造られた石造り単一アーチ橋です。この橋は人が渡るために造られたのではありません。この辺りの地域は水の便が悪く、住民は慢性的な水不足に悩んでいました。そんな住民たちを救うため、惣庄屋であった布田保之助(ふた保之助)が中心となって水路橋の建設を計画。そして種山石工の技術を駆使して造られたのが通潤橋です。
通潤橋の上部には3本の通水管が通っており、放水は観光の目玉でした。以前は橋の上にも行くことができましたが、熊本地震の影響で立ち入りはここまで。放水も当分は休止となってます。
こちらがその布田保之助翁の銅像。布田保之助は通潤橋の建設だけでなく、道路や橋のなどの交通網を整備するなど数多くの開発事業を手がけています。その功績はこの辺りで布田保之助の恩恵を受けていない村はないと言われるほど。自信の地位や名誉のためでなく、住民の幸せのために尽くした立派な方だったそうです。
石造りの水路橋としては日本最大の規模を誇っている通潤橋。水路橋のため手すりなどはありませんが、今まで一人も転落したことはないそう。1960年(昭和35年)には国の重要文化財に指定だれました。
通潤橋がある山都町の旧矢部町で行われる八朔祭。その祭の大造り物が橋の前にありました。
古民家
通潤橋の近くにあった平行三棟づくり民家。茅葺き屋根が平行に3棟続いているためそう呼ばれます。宝暦年間(1751年〜1764年)の建物で、築250年以上。棟と棟の間には強い谷風をさける工夫が凝らされているそうです。
家は台所、表間、座敷間からなっておりこちらは台所。
平行三棟づくり民家は中に入ることもできます。
こちらは表間でしょうか。
板張りになっています。
茅葺き屋根の裏側。
囲炉裏もありました。
奥には当時の家具や解説があります。
けっこう広いですね。
こちらは座敷間。
通潤魂の書が飾ってあります。
奥の六畳間。
これは長火鉢です。
こちらは機織り機。
調度品なども展示してありました。
日本最大級の規模を誇る霊台橋
続いて訪問したのが熊本県下益城郡美里町にある霊台橋。
こちらは霊台橋のそばにあった石碑です。
訪問時(4/19)はこどもの日が迫っていたためか、鯉のぼりが泳いでいました。
霊台橋は1847年(弘化4年)に完成した石造りの単一アーチ橋。当時としては前例がないほどの大きな石橋でした。
当時は日向(宮崎県)と行き来する交通の要衝だったこの場所。緑川の中でも特に流れが早く、下流で船渡しをしていました。江戸時代中期にはいくつか木造の橋が架けられましたが流失。庄屋だった篠原善兵衛が中心となり石橋の架橋を計画し、石工だけでなく地元農民も総出で工事に参加し石橋は完成しました。
明治時代には県道として使用され、昭和には大型車が通れるように改修して国道橋にもなった霊台橋。上流に新霊台橋が架けられた現在は、建設当時の姿に復元され徒歩専用の橋となりました。
霊台橋から見た緑川の流れ。
関係ないですが反対側にあった小屋。すごい場所に建ってます。
反対側から見た霊台橋。
通潤橋より7年早く造られた霊台橋。この技術は通潤橋にも活かされているといいます。1967年(昭和42年)に国の重要文化財に指定されました。
- スポット名通潤橋 霊台橋
- 料金見学無料
- 住所熊本県上益城郡山都町長原 通潤橋
- 熊本県上益城郡山都町長原 通潤橋
- 電話番号0967-72-4844
- 営業時間見学自由
- 休業日見学自由
- 駐車場有
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