島津斉彬公を奉る照国神社に参拝|鹿児島県鹿児島市
照国神社
鹿児島県鹿児島市にある照国神社に参拝してまいりました。
島津家28代当主にして薩摩藩11代藩主、幕末の四賢侯にも数えられる島津斉彬公を御祭神としてお祀りする神社です。
境内には鳥が羽を広げたような木がありました。屋形が鶴が翼を広げたように見えることから鶴丸城と呼ばれている鹿児島城と何か関係があるんでしょうか。
境内にあった国旗日の丸制定の由来の石碑。斉彬公は薩摩藩の富国強兵に努められ、洋式造船をはじめとして溶鉱炉、反射炉の建設、ガラス・ガス灯などの集成館事業を押し進めました。薩摩藩は日本で初めて本格的な洋式軍艦を建造。斉彬公は1853年(嘉永6年)に幕府より船の建造を申請された際に、日本の船に日の丸を掲げ外国船と区別してはどうかと提案。翌年、幕府によってその提案が受け容れられ、日の丸を総船印(そうふなじるし)とすることが決定。1855年(安政2年)、建造した船を幕府に献上するため鹿児島を発った昇平丸に初めて日の丸が掲げられました。1860年(万延元年)には国旗に昇格し、その流れで1870年(明治3年)には明治政府も日の丸と国旗と定めたそうです。
溶鉱炉や反射炉などの集成館事業は仙巌園でも解説されています。
こちらは手水舎。
その先にあるのが神門です。
神門を正面から見たところ。
神門をくぐると拝殿があります。創建当時の御社殿は権現造(別名石の間造ともいわれる日本の神社建築様式の1つ)でしたが、何度かの焼失、再建を経て現在は流造(日本の神社建築様式の1つで、最も多く見られる)となってます。
探勝園
神社の横は探勝園として整備されています。
島津斉彬公像
その探勝園には照国神社の御祭神である島津斉彬公の像があります。斉彬公は集成館など事業だけでなく、人材育成にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通などを育てられました。この像は1917年(大正6年)に彫刻家の朝倉文夫氏によって作成されたものです。
戊辰之役戦士顕彰碑
戊辰之役戦士顕彰碑。明治維新ゆかりのこの地に、戊辰戦争で犠牲になられた方を敵味方関係なく慰霊するために建てられました。
護国神社
探勝園には護国神社もあります。
島津久光公像
斉彬公の異母弟にあたる島津久光公の像もありました。久光公は斉彬公の遺言で子の忠義が藩主となると、国父として藩政を動かします。公武合体(朝廷と幕府を結びつけて幕府と各藩による体制の強化を図る政策)を推進するも果たせず、以後は討幕へと向かいました。この像は斉彬公と同じく朝倉文夫氏によって作成されたものです。
たまたまそばで清掃をされていたおじいちゃんに撮っていただきました。
電信使用の地
ここは日本で初めて電信通信をした場所。その時に本丸から探勝園まで電線を張っていた電信の跡です。
その電信使用の地のそばにあった大きな石碑。残念ながら私には何が書かれているのか分かりませんでした。
原爆犠牲者慰霊平和祈念碑
また鹿児島県による原爆犠牲者慰霊平和祈念碑もありました。この悲劇は風化させてはいけないです。
太平洋戦争戦士之墓
少し小高い場所には太平洋戦争戦士之墓がありました。先の戦争で犠牲になった方々のお陰で今の私達があるというこを忘れてはいけないですね。
第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑
また第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑もあります。戦争はどっちがいい悪いではなく、やっていはいけないですね。
島津忠義公像
斉彬公、久光公の像から少し離れた場所にある島津忠義公像。忠義公は斉彬公の遺言によって、斉彬公の娘と結婚して島津家29代当主ならびに薩摩藩12代当主となりました。祖父・斉興、父・久光の補佐を受けながら藩政を動かし、軍事力や集成館事業などを充実に尽力。日本初の紡績工場などをつくるなどの功績をあげられました。この像は斉彬公、久光公と同じく朝倉文夫氏によって作成されたものです。
照国神社は神社だけでなく隣の探勝園も見どころが多いスポット。また鹿児島県歴史資料センター黎明館に展示されている太刀「銘国宗」は国宝。照国神社が所蔵している逸品です。今回、私は時間の都合で見れませんでしたが、また時間を作って見にいきたいと思います。
- スポット名照国神社 探勝園
- 住所鹿児島市照国町19-35
- 鹿児島市照国町19-35
- 電話番号099-222-1820
- 営業時間参拝自由 社務所受付時間 8:30~17:00
- 休業日年中無休
- 駐車場平日24台 土・日 40台 バス2台 8:00〜17:00
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