日本三名園に数えられる偕楽園
茨城県水戸市にある偕楽園に行ってまいりました。日本三名園に数えられる庭園になります。偕楽園は1842年(天保13年)に徳川斉昭公によって開園されました。名前の由来は孟子の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ。故に能(よ)くたのしむなり」の一節から。斉昭公みずからが造園構想を練り作り上げた庭園です。
こちらは好文亭表門。1842年(天保13年)の偕楽園創設時からあり、切妻造りの腕木門で屋根は茅葺きです。松材が多く使用されていて、別名は黒門。1945年(昭和20年)の空襲でも焼け残り、修復はされているものの創設当時の姿を今に残します。
陰陽の世界を表しているとさる偕楽園。表門を通って好文亭へと向かう道がその陰陽を最も楽しめるといわれています。
表門の次にあるのが一の木戸。
その先には孟宗竹林が広がっています。
この孟宗竹林は陰の世界でしょう。
吐玉泉へと続く道。
こちらは次郎杉跡。1946年(昭和39年)の台風で倒れてしまったそうです。
そしてこの立派な杉は太郎杉。樹齢は800年をこえるそうです。かつてはこの太郎杉の周りには大きな杉が生えており、大きい順に名前がついていたそう。五郎杉までありましたが現在はこの太郎杉のみが残っています。
こちらは吐玉泉。このあたりは湧き水が多かった場所で、地形の高低差を利用して水を噴出させる演出となってます。湧出量は一日約100トン。眼病に効くといわれ、かつては好文亭の茶席にも用いられたそうです。泉石は太田市真弓山の大理石。現在の泉石は四代目だそうです。
好文亭へと向かう杉林。
そしてこちらが好文亭中門です。
こちらの梅の木は烈公梅。
この木は輪違い梅といわれ、花の枝によって色が違うため「思いのまま」と名付けられているそうです。開花時期は2月上旬から3月中旬。
好文亭
こちらで受付をしてから好文亭へ向かいます。入館料は大人200円、小人100円。
この寒緋桜は3月下旬〜4月上旬にかけて開花。旧暦の元旦に咲くそうで、ガンジツザクラともいわれるそうです。
そしてこちらが好文亭となります。
好文亭は水戸藩九代藩主、徳川斉昭公が家中の人々の心身の休養をはかるため1842年(天保13年)に建てたもの。木造二層三階建てで、本邸と奥御殿からなります。奥御殿は万が一の場合の避難場所として備えられたそう。1945年(昭和20年)の空襲で全焼しましたが、1955年(昭和39年)に復元されましたが、1969年(昭和44年)に落雷で一部を焼失。その後、1972年(昭和47年)に再び復元されました。
こちらは待合。茶席に招かれた人が、準備ができるまで待っている場所です。壁には斉昭公の書で茶説、茶対、巧詐不如拙誠を彫りつけたものが塗り込められているそうです。
玄関から好文亭内へ。
入ってすぐのところにあった羽衣の松。かつて偕楽園にあった名木です。
こちらは菊の間。
ふすまに菊の絵が描かれています。
菊の間付近の縁側。
こちらは桃の間。ふすまに桃の木が描かれています。
そしてつつじの間。
縁側の雰囲気もいいですね。
こちらの松の間。ふすまに松が描かれており、藩主の夫人が好文亭においでの際は休憩された部屋だそうです。
ふすまに鮮やかな紅葉が描かれた紅葉の間。こちらは藩主の夫人がおいでの際に、お付きの女中が控えたいた部屋ということです。
こちらは竹の間のふすま。
一面に竹の絵が描かれています。
ちょっぴり趣が違う梅の間。明治2年〜6年まで藩主夫人の居室となり、明治33年には皇太子(大正天皇)にお泊りになったという由緒ある部屋です。大正元年には時の皇太子(昭和天皇)が秩父宮、高松宮両殿下と御一緒に御休憩、さらに大正15年には三笠宮殿下が御休憩されました。
縁側からは好文亭の庭を見ることができます。
こちらは清の間というシンプルな部屋。
この日は曇り空でしたが、好文亭の庭。
この萩の間は藩主夫人がおいでになった際に、お付きの女中が休憩した部屋です。
ふすまの絵が鮮やかですね。
そしてこちらは桜の間。
こちらもお付きの女中が休憩した部屋だそうです。
好文亭の廊下。
こちらの太鼓橋廊下は本邸と奥御殿を結んでいます。
この格子窓は斉昭公が考案。篠で作られているそうです。
ここは華燈口(かとうぐち)といって、奥御殿から本邸に渡る出入り口。小坊主が控えており、連絡にあたった部屋だそうです。
これは厠。トイレですね。
こちらの部屋は東広像。
斉昭公が80歳以上の家臣、90歳以上の庶民を招いて慰労された部屋だそうです。