鶴嶺神社に参拝しました|鹿児島県鹿児島市
鶴嶺神社
仙巌園のすぐ側にある鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)に参拝してまいりました。
鶴嶺神社は1869年(明治2年)に島津家歴代当主とそのご家族をお祀りする神社として現在の鹿児島市照国町に建立されたのがはじまり。
1879年(明治12年)に竜尾神社を合祀し、1917年(大正6年)に現在の場所に遷座されました。
島津家家庭学校跡
神社の左側にあったこの建物は島津家家庭学校跡。1893年(明治26年)に島津家30代当主島津忠重のために島津家庭尋常小学校がつくられました。大竜小学校から選抜された30名の生徒がともに学んだそうです。のちに島津家庭尋常高等小学校となり、忠重の弟たちが卒業した1901年(明治34年)に廃校となりました。校舎は木造平屋建て。別棟に剣術道場がありました。百坪の校庭と馬場があり、棒倒しや艦長あそびなどが行われていたそうです。
手水舎
こちらが鶴嶺神社の手水舎。
拝殿
こちらの拝殿は入母屋造り。
鶴嶺神社は女性に嬉しいご利益があります。鶴嶺神社は島津家当主とそのご家族を祀る神社で、ご家族の中に亀寿姫という女性がいらっしゃいました。
亀寿姫は16代当主島津義久の三女として1571年(元亀2年)に生まれます。1587年(天正15年)、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、亀寿姫は秀吉のもとに人質として送られることになりました。秀吉は亀寿姫があまりにも美人だったため、偽物ではないかと疑ったそうです。しかし亀寿姫の落ち着いた態度を見て本物と確信。このため鶴嶺神社にお参りすれば身も心も綺麗になれると言われるようになったそうです。
溶鉱炉跡
神社の右側にひっそりとあった溶鉱炉跡。1852年(嘉永5年)、28代当主島津斉彬はオランダの書物を参考にこの地に溶鉱炉を建設しました。視察した佐賀藩士の記録によると高さ6.7メートル、幅3.3メートルもあったそうです。
本殿
こちらが鶴嶺神社の本殿。
本殿は流造となってます。流造(ながれづくり)とは神社建築様式の一つで、屋根が反り、屋根が前に曲線形に伸びて向拝したものだそう。一番多く見られる様式ということなので、最も一般的な作りの建物ですね。
鶴嶺神社は山のふもとに位置しています。この日は小雨だったというのも手伝ってかどこか神秘的な雰囲気。時間がない中ではありましたが、参拝させていただきました。
- スポット名鶴嶺神社
- 住所鹿児島市吉野町9698-2
- 鹿児島市吉野町9698-2
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