三大平山城の一つ!現存天守がある松山城|愛媛県松山市
この大きな門は内門。今回は立ち入れなかった仕切門の方へつながっています。1933年(昭和8年)の放火で焼失し、その後復元されました。
そしてこちらがメインとなる天守。松山城創建当時は五重だったといわれています。1642年(寛永10年)に松平定行が三重に改築しましたが、1748年(天明4年)に雷で焼失し、1754年(安政元年)に再建されました。1933年(昭和8年)の放火でも無事で、天守が残ったのが不幸中の幸いでしょう。
この穴蔵(重要文化財)から天守内へ入ります。穀倉や米蔵といい、かつては米などが貯蔵されていました。
櫓内
まずは天守に連結される櫓をグルリと一周します。
ここは多聞櫓の玄関。
北隅櫓は展示室になってます。
鎧も展示してありました。かっこいいです。
北隅櫓の二階。
昭和になってからの復元ですが、当時の姿が再現されているそうです。
北隅櫓から見た本壇。櫓が中心をグルリと囲っています。
北隅櫓から見た松山の街。手前には乾櫓や乾門が見えています。
ここは十間廊下。
刀剣類が展示してありました。
南隅櫓も展示スペース。
多聞櫓も同様です。
小天守
小天守の石落しと狭間。石落しは壁や塀をせりだして、そこから鉄砲や槍などで敵を攻撃する防御設備です。狭間は鉄砲や弓矢を射るためにあけた穴で、通常は内側が広くて外側が狭くなっています。これは攻撃しやすく、敵の攻撃を受けにくいようにする工夫です。
小天守の二階。
棟上げ式の弓矢が展示してありました。
小天守からの眺めも抜群。いい景色でした。
小天守から見た一丿門。こうして見ると一丿門で足止めされている敵を攻撃しやすいというのが分かりますね。
筋鉄門の上の通路。
天守
そしていよいよ天守の中です。
天守をはじめに建造したのは先述のとおり加藤嘉明ですが、完成目前で会津へ転封。その後、蒲生忠知が入国し二の丸を完成させます。しかし参勤交代の途中で病没し、子がなかったためお家断絶。次に桑名城主だった松平定行が入国し、五重だった天守を3年かけて三重に改築しました。
その後、雷によって天守が焼失するなど、紆余曲折を経て現在の姿になった松山城。天守が現存しているのはとても有り難いことです。
中央のスペースでは小天守などが復元された時のドキュメンタリー映像が放映されていました。
これは武者走りでしょうか。
階段はけっこう急なので気をつけましょう。
天守の三階。最上階になります。
三階は遮るものがほとんどない造り。
いまでいうとワンルームのようになっています。
天守三階からの眺めも最高。
いい景色でした。
三階まで見たあとは一階へ向かいます。
天守一階の武者走り。
畳敷きもありました。基本的に生活空間ではない天守。畳敷きは珍しいと思います。
一階では鎧や着物を着て記念撮影もできるようです。
一部は展示スペースになっていました。
本壇の周囲
天守を見たあとは本壇の周りを散策。
こちらの紫竹門(重要文化財)の先へ向かいます。紫竹門は乾門方面からの敵の侵入に備えています。
本壇の石垣の下。
向かって左手から見た本壇。北隅櫓、十間廊下、南隅です。
こちらは野原櫓(重要文化財)。乾櫓とともに本丸西北を防衛する役割です。日本では唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型ともいわれています。
そしてこちらが乾門と乾門東続櫓。
正木城からの移築といわれ、搦手(裏手)の最も重要な門となってます。
正面奥に見えるのが乾櫓(重要文化財)。乾門とともに搦手の防衛を担う重要な櫓です。こちらも正木城からの移築と伝わり、城内最古の建物の一つといわれています。
外側から見た乾門と乾門東続櫓。
そして外側から見た乾櫓です。
最初に3つの登城ルートをご紹介しましたが、最後の1つである古町登山道がこちら。おそらくここが最も昔の雰囲気を味わうことができそうです。今回は時間の都合で行くことができませんでした。
松山城は本壇の搦手も歩くことができます。
本壇の石垣のすぐそばを通れるというのはあまりないでしょう。
なかなか迫力がありました。
全部で21棟の重要文化財がある松山城。残念ながら火事によって本壇の建物の一部は焼失してしまったのですが、それでも復元によって当時の姿を今に残してくれてます。とても見どころも多いので、時間に余裕をもって登城したいですね。
- スポット名松山城
- 料金大人460円
- 住所愛媛県松山市丸之内
- 愛媛県松山市丸之内
- 電話番号089-921-4873
- 営業時間(2~7月 9~11月)9:00~17:00(8月)9:00~17:30(12~1月)9:00~16:30
- 休業日12月第3水曜日
- 駐車場有料駐車場が有
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