三大平山城の一つ!現存天守がある松山城|愛媛県松山市
山頂にそびえる松山城
愛媛県松山市にある松山城に行ってまいりました。松山城の本丸は勝山山頂にあり日本三大平山城の一つに数えられています。築城したのは加藤嘉明。もとは羽柴秀吉(豊臣秀吉)子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人です。秀吉の死後におきた関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍について活躍。戦後は伊予20万石に加増転封となり、この松山にやってきます。松山城の築城しますが完成目前の1627年(寛永4年)、会津(福島県)へ転封になってしまいます。その後は蒲生家、松平家が入城しました。
二ノ丸跡
天守がある本丸は山頂にありますが、二ノ丸は山のふもとにあります。
こちらが二ノ丸跡。現在は二之丸史跡庭園として整備されています。
こちらは黒門跡。
道は枡形になってしまいます。枡形とは道を直角に2度曲げ、侵入しにくくする防御設備。
この黒門から槻門にかけては道がくねくねしています。
こちらが槻門跡。やはり枡形になってしまいます。
黒門口登城道
松山城の本丸へ行くにはいくつかルートがあります。ここからの道はその一つである黒門口登城道。
この辺りは石垣がよく残っています。
門とかがあってもおかしくなさそうな石垣。
雰囲気がありますね。
黒門口登城道は途中でこんな階段も登ったりしました。
しばらく登っていると本丸の石垣が見えてきます。
県庁裏登山道
もう一つのルートである県庁裏登山道。こちらは舗装された道を登っていくルートになります。
東雲登山道
もっとも一般的と思われる東雲登山道。街中から本丸へと続くルートです。
ふもとにはロープウェイもあり、歩かなくても山頂まで行くことができます。
県庁裏登山道と東雲登山道は途中で合流しており、本丸の石垣の下を通って本丸の入口へ。
ここは待合番所跡。はっきりとした設置場所は分かっていませんが、常時3人が警備していたそうです。
本丸入口
大手門跡。黒門口登城道もこの大手門跡に続いています。
大手門跡から見た太鼓櫓。かつてふもとには中丿門がありました。
折り返してこちらは戸無門。高麗門という形式で、昔から扉がなかったため戸無門というそうです。扉を取り付けた痕跡もないとか。当時から現存し、重要文化財に指定されています。
戸無門から太鼓櫓を見たところ。
戸無門の隣りにある筒井門(復元)。正木城(むかし愛媛にあった城)から移築されたと伝えられています。松山城では最大の門で、最も厳重な門です。
筒井門の上部には筒井門東続櫓、筒井門西続櫓があります。
筒井門の脇にある隠門(重要文化財)。埋門(うずみもん)という形式で、筒井門を攻める敵の背後を襲う役割となってます。
隠門の上部には隠門続櫓(写真左・重要文化財)。隠門、隠門続櫓は当時から現存しています。
その付近からの眺めは抜群。松山の街を一望できます。
本丸へと続く太鼓門。筒井門を突破した敵に備えています。
門の上には太鼓門南・西続櫓。
本丸
太鼓門を抜けると本丸になります。こちらは太鼓櫓。太鼓門、太鼓門南・西続櫓、太鼓櫓、巽櫓でワンセットだそうです。
本丸内にあった井戸。戦前までは釣瓶があり、水を汲み上げることができました。
本丸の広場。
ここからも非常にいい眺めです。
松山城のマスコットキャラクター、よしあきくんもいました。
それではいよいよ天守へ。こちらで入城券を購入します。
本壇
こちらは紫竹門東塀(重要文化財)。乾門方面からの攻撃に備える塀で、1748年(天明4年)に雷で焼失。嘉永年間(1848年〜1855年)に再建されました。
こちらは一ノ門南櫓(重要文化財)。
そして正面には天守(重要文化財)。その下の塀は鉄筋門東塀(重要文化財)です。
まずあるのが一ノ門(重要文化財)。本壇(天守曲輪。通常、天守の下には天守台があるが、松山城は連立式天守のため本壇をもつ)の入口にあたる門で、二丿門南櫓(重要文化財)、三丿門南櫓(重要文化財)、小天守から射撃される位置にあります。
1748年(天明4年)に雷で焼失し、1786年(天明6年)に再建されました。
続いて二丿門(重要文化財)。薬医門という形式で、天守(重要文化財)、三丿門東塀(重要文化財)から射撃される位置にあります。
こちらも1748年(天明4年)に雷で焼失し、1754年(安政元年)に再建されました。
そして三丿門(重要文化財)。高麗門形式で、三丿門南櫓(重要文化財)、天守から射撃される位置にあります。こちらも1748年(天明4年)に雷で焼失し、1754年(安政元年)に再建されました。
さきほど天守を見たときに、天守の下にあった筋鉄門東塀(重要文化財)。一ノ門南櫓、一ノ門、小天守を防衛する役割を持ちます。こちらも1748年(天明4年)に雷で焼失し、1754年(安政元年)に再建されました。
こちらは三丿門南櫓(重要文化財)。一ノ門、二丿門、三丿門を防衛する役割を持っています。またまたこちらも1748年(天明4年)に雷で焼失し、1754年(安政元年)に再建されました。
こちらは筋鉄門(すじがねもん)です。門の柱に鉄板が張ってあるのがその名の由来。三丿門を防衛する役割です。
1933年(昭和8年)の放火で一部焼失。その後復元されました。
天守につぐ大きさを持つ小天守(こてんしゅ)。創建当時は着見櫓といわれていました。1933年(昭和8年)の放火で焼失。その後復元されました。
こちらは多聞櫓。南隅櫓と小天守を連結し、南隅と紫竹門を防衛する役割です。1933年(昭和8年)の放火で焼失し、その後復元されました。
こちらがその南隅隅。本壇西南にあり、乾門方面を防衛する役割です。1933年(昭和8年)の放火で焼失し、その後復元されました。
この横長の建物は十間廊下。北隅櫓と南隅櫓を結びます。幅が十間(一間は約1.818メートル)だったのがその名の由来。1933年(昭和8年)の放火で焼失し、その後復元されました。
十間廊下で連結される北隅櫓。本壇の西北にあり乾門や野原櫓方面を防衛する役割です。1933年(昭和8年)の放火で焼失し、その後復元されました。
- スポット名松山城
- 料金大人460円
- 住所愛媛県松山市丸之内
- 愛媛県松山市丸之内
- 電話番号089-921-4873
- 営業時間(2~7月 9~11月)9:00~17:00(8月)9:00~17:30(12~1月)9:00~16:30
- 休業日12月第3水曜日
- 駐車場有料駐車場が有
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