謙信公も祀られている上杉家廟所|山形県米沢市
歴代当主をまつる上杉家廟所
山形県米沢市にある上杉家廟所に行ってまいりました。最寄り駅は西米沢駅になります。
廟所への参道は両脇に杉が生い茂っていて、どこか神聖な雰囲気。
上杉家墓所資料館
左手には資料館がありました。
中には旧拝殿の鬼瓦や妻飾りなどが展示してあります。
廟所
廟所の入り口には上杉謙信でお馴染みの毘沙門天の「毘」の字の旗がはためいていました。
廟所は正面の奥に初代である謙信公、そしてその左右に歴代当主の御廟が並びます。
初代謙信公不識院殿
上杉謙信はもともとの名前を長尾景虎といって、上杉家の出身ではありません。1561年(永禄4年)に関東管領(室町幕府の鎌倉公方を補佐する役職)・上杉憲政から家督と関東管領職を相続して、そこから上杉姓を名乗ります。
ということで長尾家系の上杉家初代が上杉謙信。
初代ということで、謙信公の御廟である不識院殿は特別扱いとなっています。
謙信公の御廟から見た参道。
不識院殿から左手には偶数代の当主の御廟があります。
二代景勝公覚上院殿
二代景勝公の公覚上院殿。豊臣政権では五大老を努めました。
十四代茂憲公記念碑
最後の藩主となった茂憲公の記念碑。明治維新後は沖縄県令や国会議員などを歴任しました。
四代綱勝公上生院殿
四代綱勝公の上生院殿。政策としては検地やキリシタンの弾圧を強化があります。
六代吉憲公樹徳院殿
六代吉憲公の樹徳院殿。江戸幕府の命によって江戸城半蔵門などを普請しました。
八代宗房公英徳院殿
八代宗房公の英徳院殿。米沢藩の財政が厳しい時代に治世を求められました。
十代治憲公元徳院殿
十代治憲公の元徳院殿。上杉鷹山として有名な治憲公は名君として知られ、財政難だった米沢藩を改革によって再建しました。
世子顕孝公瑛林院殿
世子顕孝公の瑛林院殿。治憲公の長男で家督を相続する前にお亡くなりになりました。
十二代斉定公俊徳院殿
十二代斉定公の俊徳院殿。天保の飢饉の際には農民に米を支給するなどして、餓死者を出さなかったそうでうす。
左の端から見た上杉家廟所。
謙信公の不識院殿から右側には奇数代の当主の御廟があります。
三代定勝公大上院殿
三代定勝公の大上院殿。検地を行い年貢の制度などを整備しました。
五代綱憲公法林院殿
五代綱憲公の法林院殿。綱憲公は赤穂浪士に出てくる吉良上野介義央の長男で、上杉家に養子入り。風紀の取締を行い、勉学の奨励、歴史編纂などを行いました。
七代宗憲公桂徳院殿
七代宗憲公の桂徳院殿。江戸幕府の命によって江戸城の普請に参加しました。
九代重定公東岳院殿
九代重定公の東岳院殿。あまり政治には口出ししなかったそうですが、あとを継いだ上杉鷹山公を陰ながら支えました。
十一代治広公享徳院殿
十一代治広公の享徳院殿。治広公の治世は先代の上杉鷹山公の影響が大きかったそうです。
上杉謙信公の出身である長尾家は越後(新潟県)が本拠地。二代景勝公は豊臣政権時代に会津120万石へ加増転封されましたが、関ヶ原の戦いで敗れた西軍についていたため、越後から米沢30万石に減封となりました。
御廟のは謙信公が流造、二代景勝公から八代宗房公までが入母屋造り、九代重定公以降は宝玉造りとなっています。明治時代以降は取り巻く環境が厳しくなったようですが、それに耐え今でも当時の面影を残す上杉家廟所。米沢では上杉家廟所を”御廟”や”おたまや”といって親しまれています。
- スポット名上杉家廟所
- 料金一般 350円
- 住所山形県米沢市御廟 1-5-30
- 山形県米沢市御廟 1-5-30
- 電話番号0238-23-3115
- 営業時間9:00~5:00
- 休業日無休
- 駐車場有
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