水戸藩の藩校だった弘道館
茨城県水戸市にある弘道館に行ってまいりました。弘道館は藩政改革を推し進めた水戸藩九代藩主、徳川斉昭公によって創設されました。1841年(天保12年)に開館。1857年(安政5年)に本会館式を迎えました。学問と武芸を教えていたそうです。藩校としては全国一ともいわれる規模を誇り、いくつかの建物も現存。当時の姿を今の残す貴重な場所です。
こちらの正門は1841年(天保12年)の弘道館創設時に建てられた物。重要文化財に指定されています。本瓦葺き四脚門という構造で屋根瓦には葵の紋。藩主が通るときや儀式があるときのみ開かれたそう。1968年(明治元年)におきた弘道館の戦いという藩内抗争時の銃撃戦の跡が残っています。
こちらが入口。入館料は大人200円、小中学生100円。
この松は御手植の黒松といって徳川斉昭公が植えられたそうですが、現在は三代目ということです。
こちらは弘道館の正庁。創設当時から現存していて重要文化財に指定されています。
玄関はこちら。
玄関の正面にあるのは正庁諸役会所。
中央には尊攘の幅がかけてあります。斉昭公の尊央攘夷(王(天皇)を敬って外敵(外国)を撃退しようという)思想を反映しているんでしょうね。
廊下を通って奥へと向かいます。
縁側にも畳が敷き詰めてあり、豪華な建物ですね。
部屋もいくつもあります。
こちらは正席の間。床の間や違い棚があるので格式の高いお部屋でしょう。
そのためか釘隠しも金色です。
ここは弘道館の便所。3室からなっていて、一番奥は大便用、中央は小便用です。そして一番手前のこの部屋は手を洗うところ。
これが大便器です。周囲は畳になっていて、やっぱりいい建物ですね。
ここは湯殿。お風呂場です。
広い通路。
弘道館の瓦が展示してありました。
ここは至善堂の手前の部屋。
そしてこちらが藩主の部屋である至善堂。江戸幕府15代将軍、徳川慶喜公が大政奉還の後に謹慎生活をおくったという由緒あるお部屋です。
これは長持ち。徳川慶喜公が至善堂で生活していた時に使用したと伝わっているそうです。
展示してあったこの機具は雲龍水。今でいうと消防ポンプです。安政四年(1857年)の銘があるということで、古い物になりますね。
これは一般の釘隠し。正席の間や至善堂のものに比べると質素ですね。まるで手裏剣のようです。
これは木彫りの農人形。徳川斉昭公は小さな農人形を作って食膳に据え、最初の一口を人形に供えてから食事をされたそうです。この人形は斉昭公の遺徳顕彰のために作製された物。
弘道館内には色々な資料が展示してありました。
館内を見た後はお庭を散策。
当初のものかは分かりませんが、井戸もありました。
昔の弘道館の様子を撮影した写真。
庭から見た正庁。
中から見ても外から見ても弘道館は非常に立派な建物でした。いい人材を育てるにはいい場所でということでしょうか。現代の学校とは少し意味合いが違うものの、それに比べて今の学校の建物はなんだか無機質だなあと思いました。
正庁の周りにもいくつか建物が残っています。中には入れませんがこちらは孔子廟。復元だそうです。
この鐘は学生警鐘。創建当時から現存しています。
当時の弘道館の敷地内にある鹿島神社の鳥居。
この八卦堂は復元ということです。
こちらは要石歌碑。鹿島神社の要石になぞらえて建ててあり、歌は斉昭公の自筆ということです。
鹿島神社の拝殿。
本殿は唯一神明造という構造だそうです。
弘道館は藩をあげて作られた学校。今の国立などの学校の建物が後世まで現存したとして、果たして後世の人が立派だなと感じることはあるんでしょうか。現代の学校と単純に比べることはできませんが、そんなことを思ったりしました。